「ナラバンゾウ」や「キキナガスクジラ」など、面白いことを考えつく人がいるものだ、と思って笑ったけれども、この記事で例として示されているような迷惑行為はここポルトガルにも存在している。
最近ではフランスのニュースでも l'incivilité(無作法、無礼)なる単語を聞く機会が増えたように思う。
僕が興味を惹かれるのは、日本でも地理的に遠く離れたフランスやポルトガルでも同じような公共の場でのマナー違反、迷惑行為が起きていることだ。グローバル化はこういうところにも及んでいるらしい。
僕がポルトガルに住み始めた時に結構インパクトがあったのが車の運転マナーの悪さ。もちろんポルトガル人全員がとんでもない運転をするわけではないけれど、無謀な運転をする人に遭遇する確率は、明らかに日本より高い。
運転手の何人かにとっては、基本的に、アクセルを踏むこと、と、ブレーキを踏むこと、しか操作の仕方を知らない人たちが存在していると思われる。
前方の信号が赤になっていても、かなり狭い道でも、すぐにT字路で速度を上げても意味がない場面でも、とにかく「どうして?」と思うほどスピードを出す。危険極まりない。
僕が日本で免許を取った時は、人が飛びだしてくるかもしれない、信号が赤に変わるかもしれない、など教習で「かもしれない」運転を心がけるように教えられたけれど(今はどうだか知らないが)、ここでは人は飛びだしてこないだろう、信号は変わらないだろう、と「大丈夫だろう」運転が主流なようだ。
他にも、急ブレーキをかけたら間違いなく追突される距離で後ろに着けられたり、それなりに混雑した駐車場でも平気で2台分取って斜め駐車したり、そんなことは日常茶飯事です。
そんな場面に出くわすたびに、こういうことをする人たちには他人の存在に考えが及ぶ「想像力」がないんだな、と思わされます。
これは確か養老孟子さんが著書の1つの中で(記憶がちょっと曖昧です)、車を運転している時、事故を起こせば自分は怪我をするし、修理代はかかるし、もし対人なら相手を怪我させるし、最悪は死んでしまうかもしれない、相手を死に追いやってしまうかもしれない、色々損害賠償など面倒なことになる、そういう想像力が働けば、自ずと無茶な運転はしなくなる、ということを話していたけれど、本当にその通りだと思います。
もし、公共マナーの悪さが日本でもフランスでもポルトガルでも増えてきいるのだとしたら、この想像力の欠如に原因の一つはあると思う。
そして、この想像力を養うのが教育の本来の目的の1つだと僕は思ってます。もう少し平たく言うと「他人の存在」を意識できること。
この記事にでてくる「カサウシロフルス」や「リュックトドン」などは頻繁に出くわしますね。邪魔になる、傘を振り回して危ない、などに気がつかない、意識が及ばない。その想像力のなさに唖然とすることもあります。
本来は、どんどん法律で規制するよりも、想像力を育てる方が長い目で見て有効である、と思うけれどそれはきっと夢物語ですね。
にほんブログ村